今回から3回にわたって緋宮栞那さんの特集をお届けします。

緋宮さんは「きれい塾キッチンスタジオ」にて料理教室を開催し、医療機関、各クリニックなどで食養カウンセラーとしても活動する一方で、テレビ、雑誌、インターネットの出演も多く、ますますマルチに大活躍中です。

今回はそんな緋宮さんの生い立ちから料理家になられたきっかけをうかがいました。
Haru:





緋宮:
今日はどうぞ宜しくお願いします。

緋宮さんは加賀料理の伝承家として現在ご活躍中なのですが、先生が現在のお仕事を始めるきっかけはいったい何だったのでしょうか?

私は加賀、武家の饗応料理と名付けて食事会を開催しています。私が武家の饗応料理、つまりお殿様や武士たちが食べていたお料理を伝えようと思ったきっかけは、私の先祖が加賀前田藩のお台所を預かるお役目を仰せつかっていたからです。

利長公の時代からお殿様の健康管理をしていました。健康管理の基本は食ですから。その大切な お役目を先祖が仰せつかっていたちいうことが代々家の言い伝えであったことと、もうひとつにそのことを日記のようなものに記したものがみつかったということです。
緋宮:
それがきっかけで、わたしの家系はお殿様の健康をずっと守り続けてきたということがはっきりわかりました。

私自身も気がついてみると管理栄養士を目指し、人の健康、つまり幸せを職業にすることになっていました。

これは先祖の思いや力に導かれてきた、ということに涙が出るほどに心を打たれました。つまり料理家として生きることに導かれてきたとは確信したのですが、では私は料理家として何をしたら良いのか、ただ料理をつくって食べていただくのか、ただ大学で生徒たちに教えるだけではなく、私にしか出来ないことは何かを悩みながら考えました。
緋宮:
その結果、先祖が国を預かるお殿様の健康管理をしていたというスピリッツ、つまりは魂を受け継いで、現代のみなさんの健康をテーマにしながら、大切なお殿様や旦那様の健康を預かる奥方様や御姫様たちはどんな思いでお台所を預かったかをもう一度再現し、私流に伝えていくことに行き着きました。それが加賀前田藩武家の饗応料理という食事会なのです。ここでいろいろな思いを伝えさせていただいています。
Haru:

緋宮:
小さい頃からお料理自体はお好きだったのですか?

私は躾、作法に大変きびしい家庭に育ちました。

小さい頃から『お茶』、『お華』、『お琴』などをさせられましたから、ずっと正座の生活で高校生ぐらいになってから椅子の生活になったんで。 今でも本当は正座のほうが落ち着きます。

しかしそのころはまだ若く、厳しい家庭環境でしたので高校を卒業したらとにかく早く家を出たいの一心でした。

なんでも良いから親の元から離れたいの思いだけでした。料理の勉強をしたいから、料理の学校に行きたいなどの考えは一切なかったですよ。むしろ、自分で料理をつくることに当時は反発していました。
Haru:

緋宮:
料理を職業にしていくきっかけは何だったのでしょうか?

実は一つ分かったことがあります。神様がお役目を与えようとする人には、気づかせるためにカミナリを落とすということです。

私には三人の子どもがおります。長男は極度のアレルギー体質で小児ぜんそくでした。次男は先天性の心臓に穴があいている病気を持っていました。三番目の娘は唯一健康でした。次男の時はカミナリを感じたどころではなく、この子を連れて死のうか。。。と正直思ったことがありました。今でも病気を持って生まれてきてしまったら大変ですけれども、20数年前に心臓病で生まれたと言うことは大変な出来事でした。

周りもそうでしたが、『なぜこんな子が生まれたのだろうか』と悩み、自分を責め続けました。子どもと約一年間一緒に入院し、小児病棟の生活を経験しました。

みんなが明るいので光が射す一面もありましたが、辛く悲しい毎日でした。癌や白血病の子どもたちを見て、まだ自分の子どもは軽いんだなと逆に励まされましたが、『なんでこんな子が私の体から出てきたのだろうか』と考えたときに、私が若い頃に食べていたものにいきつきました。インスタントラーメンやカップラーメンが出てきた時代です。親に反発して家を飛び出した頃です。

料理は一切しませんでした。ご飯とは呼べないものを食べていましたし、食事の代わりにお菓子やスナック、甘いものを食べたり、ファミリーレストランによく足を運びました。
緋宮:
一番健康な卵子をつくらなければいけない時期に食事の乱れから体の中に添加物の蓄積を生み、神様がこれを罰として、食事に『気づきなさい』というメッセージを教えてくださったのだと思っています。子どもには申し訳ない気持ちでいっぱいです。

今でも子どもの胸には大きく手術の後が残っています。

とてもごめんなさいではすまないことですね。
緋宮:
私も仕事を続けていると辛いことや失敗などがあります。金沢で料理学校と料理店をかけ持ちしており、365日休みがなく『あぁ、もうやめたい』と泣きながら思ったこともあります。

しかし次男の手術の痕を見るたびに『頑張らなきゃ』『この子にちゃんとしたお母さんの背中を見せなければ』という思いでやってきました。今から思うと大きな転機でした。
Haru:
緋宮さんみたいな境遇の人はいらっしゃるでしょう。でも普通緋宮さんのようには思いません。他人に転嫁はするけども、自分の生活態度、食生活が悪かったんだと思い当たる人はほとんどいないのではないでしょうか。

しかし緋宮さんの辛さは並大抵ではなかったでしょうね。20数年前の金沢ですよね。金沢って素晴らしいところです。でも保守的な面を持っていますよね。

私は鹿児島出身なんです。鹿児島と言ったら超が付くほどの保守的なところで、男尊女卑の典型的なところなんです。すると、何かあれば『嫁が悪い』と言うことになるんですね。
緋宮:
一時働き過ぎと人間関係で心に余裕がなくなって倒れたことがあります。お店のこと、子供のこと、嫁姑のことがすべて重なったんです。その結果、物が食べられない、飲み込めない状態になってしまったのです。親と言うのは不思議なもので、私が倒れたその朝に突然私を訪ね、倒れている私を見つけ、病院に運んでくれました。

入院先は精神科でした。と言うのも体を調べても悪いところは無いわけです。だって原因はストレスですから。結局2ヶ月間入院しました。物は飲み込めない、ですから薬も飲めない、点滴もしませんでした。自分で立ち直りなさいという方針だったわけです。

想像できますか?

田舎で精神病棟に入院するってどんなことか。

子供たちはまだ小学生でしたので、私が精神病棟に入院していることは理解していないのが救いでした。子供たちはお母さんが食べられない、飲み込めないことは理解していましたので、お小遣いからヨーグルトなどを買ってきてくれるんです。

気持ちはとてもありがたいんですけど、体が受け付けないんですね。
緋宮:
ただ、私が今こうしているきっかけを作ってくれたのは娘なんです。まだ幼稚園の娘が小さな小さな手でおにぎりをりを作って持ってきてくれました。

娘の前では何とか食べなきゃいけないって強く思いました。何とか食べました。おわかりになりますか?ごっくんって物が飲み込めるようになったのです。水も飲めなかったんですよ。

そのころは体重が42kgまで減ってしまい、本当に死にかけていました。極度の脱水状態でした。これは私に神様が食べることの大切さを教えてくださった、と理解しました。食べることがどんなに命をつなぐことかを身を以て経験させられました。

しかもただ食べれば良いではありません。いい加減なものを食べていると私のように子供に罰を返 してきます。食べ物を粗末にすると命がなくなってしまうよ、と教えてくれました。私を気づかせてくれたのは子供たちでした。とても感謝しています。
緋宮さんと私が互いに料理をつくり、食について話し合いました。次回は4月1日にアップします。

お楽しみに。
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食養料理研究家、管理栄養士、加賀百万石前田藩、饗応料理研究家、きれい塾JAPAN CULTURE主催
緋宮さんは医療機関やクリニックなどにて管理栄養士・食養カウンセラーとして、主に生活習慣病・摂食障害を専門に心と体の栄養指導を行っています。
主な著書にすぐにできる美人食「マクロビオティックダイエット」、東大生認定「あたまがよくなるレシピ」、恋愛運を呼び込む「しあわせレシピ」など多数。
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